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あねっちゃ

Author:あねっちゃ
20ン年の共働き生活を休止し,専業主婦デビュー。
潜伏4年を経て,再就職トレ開始。
ゆるゆるな日常をゆるゆると書いております。
佐藤竹善・SING LIKE TALKINGファン歴25年。
2010年にMEA(マイクロ波子宮内膜アブレーション)を受けました。それについてのモロモロは,旧ブログのフリーページに置いてありますので,リンクからどうぞ☆
写真はクリックで大きくなったりならなかったり。

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春は名のみの毎日なのです。

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早や2月。
久々のアルバイト勤務が1か月を過ぎ,通勤の身体と仕事のトーク力が慣れてきました。
元々は接客がメインだったので,口が覚えていてくれた感じです。

休日の土日の朝食は,冬限定の「スギッチ肉まん」でほっこり。
きりたんぽの具材がたっぷりで,普通の肉まんよりもあっさりしてて大好きなんです。

15894884_1271814856195088_2329361569161718000_n.jpg
折しも我が家は受験シーズン真っ最中でして。
卓球でもストレート勝ちということがあまりなかったチビは
おそらく,団体戦最終戦のフルセットをデュースまたデュースで,
ようやくどうにか勝ち抜くのではないかという気配。いやとにかく勝ってくれ。ほんと。
ワタクシもう降圧剤が欠かせませんわ・・・

15873332_1271814899528417_6647966140443060819_n.jpg
頑張ってる人にさらに頑張れと言うのは無体だと思いつつも
ダラダラと録画のテレビ番組を見続けようとリモコンを手にしようものなら
「まずテレビ消せっ!」 と叫ぶ日々です・・・
見なければ見ないでも済むんですよ。テレビって。ねぇ。

DSCF4418.jpg
雪は降ったり消えたりを繰り返していますが,まあ毎年のこと。
除雪がすごく楽だった昨冬よりは,確かに多いなぁとは感じますが,
カマキリが昨秋地上1m地点に産卵していたという情報もありましたし,その位は降るのでしょう。
夕暮れの空に見えた明るい星に,明日もいい日であるようにと願う毎日です。

とある中学生が書いた作文に落涙しました。
作者匿名として追記で載せます。家族の幸せはお互いを尊重することです。

よろしかったらぽちっとな☆φ(^o^)
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『家庭内暴力から考える私の思い』

 「パパ,おかえり。」
 3歳だった頃の私は,父のことを「パパ」と呼んでいた。しかし,「パパ」はいつしか「あの人」に変わった。
 母と父が離婚して12年が経つ。離婚は家庭内暴力が原因だ。母は私が幼い頃,家庭内暴力を父から受けており,苦しんで耐えてきた。私と2歳上の姉も殴られたり,蹴られたりした。痛かったし,とても悲しかった。父にとってはいき過ぎたしつけだったのかもしれない。それでも私はその時父のことが好きだった。しかし,母は私達よりひどい暴力を受けてきた。言葉にできないほどの暴力を受けてきた。私も薄々,母が大変な目にあっていることに気づいていた。だから,「パパ,やめて。」と抵抗したときがある。しかし,はたかれて抵抗すらできなかった。母が殴られひどく悲しい顔をしていたところをはっきり見たその時のことを今でも忘れられない。父へのあこがれや尊敬が消えてなくなった瞬間,好きだった父のことが嫌いになった。
 しばらく経ったある日,父のいない3人で住宅物件を見ていたことがある。「なんで新しいお家なんか見てるの?お家あるよね。パパはなんでいないんだろう。」と思っていた。今なら,物件を見ていた理由がわかる。母はその時離婚をし,家を出たのだと。
 しだいに年を重ね大きくなるにつれ,知識や理解力も大きくなり,「うちは離婚したんだ,うちは離婚したからお父さんがいないんだ。」ということがわかった。離婚は,母にとって辛い選択だったのだろう。あとから母から,
「あのままだったら子供たちがいずれ私と同じくらいの暴力を受けてしまうのではないかと思って離婚したんだ。」
と聞いた。母は私と姉の二人のために辛い選択をしたのだ。保育園の様々な行事が行われた頃,周りの友達から
「●●ちゃんのパパ,来てないね。なんで?」
と聞かれたときに,
「うち離婚したから。」
と軽々しく言っていたことを思い出す。今思うと,このような言葉は軽々しく発してはいけないと思う。それだけでも母を悲しい気持ちにさせていたのかもしれない。
 ふと,時々思い出すことがある。父と母がまだ離婚していない時に通っていた保育園に,父と母が二人そろって迎えに来てくれた日のことだ。
「帰ろう。」
 たった4文字の短い言葉でも,笑顔で言った父のその言葉は私を幸せな気持ちにさせてくれた。私はその時,3歳ながらにして,「家族の幸せってこういうものなんだ。」と感じた。今は更にこう思う。父がいなかったら,ここに私は今存在しなかったのだと。
 私は,父から受けた暴力や与えてもらったささやかな幸せから,「家族」とは支えあい,母の人権,子供の人権,自分の人権,それぞれの人権をお互いに尊重しあい,生涯をかけて共に過ごしていくものだと考える。家庭内暴力,今でいうドメスティックバイオレンス,DVはそれらすべてを壊し,精神的にも肉体的にも大きな傷を与える。そして,受けた傷は一生かけても綺麗サッパリ消えることはなく,心の片隅に渦巻いている。家庭内暴力は,家族一人ひとりの人権を侵害する人権問題なのだ。
 それでも傷を受けた者は前を進んでいかなくてはならない。私は,この作文を通して憎しみに溺れるのではなく,それを乗り越え,希望を求めて進んでいけばやがて幸せにたどり着けるということを伝えたい。
 今は情報化が進み,インターネットを使って調べれば父の住所や電話番号,功績,もしくはツイッターやフェイスブックなどのSNSを簡単に特定できてしまうかもしれない。また,街中などで気づかずにすれ違っている可能性もある。そう考えるととても怖いが,私は私なりに夢を持って進んでいきたい。
 私にはいずれ,英語を話せるようにたくさん勉強し,海外旅行に母を連れて行くという夢がある。今まで私たちを第一に考えてくれた大好きな母には思う存分幸せになってもらいたい。人がこの世に生まれた時から,人権が生まれ,守られ,人権への意識が育まれていく場が家庭であると思う。人は様々な教育や環境の中で成長していくが,その基盤となる家庭内での人権こそ最も大切なのだ。私はこれからも父を思い出すことや様々な辛いことがあるだろう。それらを乗り越えていくためにも家族一人ひとりを大切にし,人権への意識をしっかりと持ち続けていきたい。

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