『わかって』煩悩。
年末年始,携帯の触りすぎで,右手が痛くなるほどです。
ネットへのレスポンスが速い機種なので,充電も一日でカラになるほど。 なにしてんだワタシ・・・と,昨夜ふと我に返りました。 保存していた切り抜きを引っぱり出して,読み返しています。 長文ですが,引用します。 「ネットに満ちる『わかって』煩悩」by小池龍之介(月読寺・正現寺住職) インターネットを通じて「人とつながりたい」という気持ちの裏にも,「自分をわかって」という煩悩はまぎれこみます。 ネット上では日記や片言のつぶやきから,匿名掲示板での他者への批判,悪口,陰口にいたるまで,膨大な量の言葉が吐き散らかされていますよね。 それらの書き言葉が昔の個人的な日記と決定的に異なりますのは,他人に見てもらいたいという衝動が働いていること。自分の日記や片言が<見られる>ことを通じて,「自分ってこんな人なんだよ」とわかってもらおうと,誰もが実は寂しくあがいているのです。 たとえば,「今日の私の誕生日は,友達が赤坂のホテルでお祝いをしてくれてフレンチでした」と,みんなからもらったプレゼントの写真つきで,なぜに書きたくなるのか。それは「みんなから祝ってもらえたりプレゼントをもらえたりして,こんなに大事にされる,ステキな私なんだって<わかってほしい>よ」という思いからなのです。 匿名掲示板での悪口も,自分の書いた悪口を多くの人たちが<見てくれていて>反応してくれることを通じて,「自分はじょうずに他人を批判できる」ということを<わからせよう>としているものです。ゆえに,だれも反応せず,だれも見てくれなければやる気を失うことでしょう。 かくして現代社会は「自分のことをわかって」という孤独な言葉へと翻訳できる文字たちに満ち満ちております。 かつての日記は他人の目を退けていたがゆえに,心の<避難所>であり得ました。それを他人の目にさらすことで「わかってよー」と心を乱すものへと変えてしまうのは,控えめにしたいものですね。
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