自分の心の声を聞く。
![]() 今朝の朝日新聞,小池龍之介氏のコラム。 読みまして,この数日間抱えていたもやもやは,コレだ!と衝撃を受けました。 あー,それで突然,あのサイトを見るのがイヤになったのか・・・。 チビ話についても,ワタシの心の深いところを指摘するコメントをこちらにいただきまして, 「本当にワタシはそんな心情があるのか?」と自問自答していた日々でした。 ワタシはワタシの心の声を果たして聞いていたのか? 聞いてるふりして「気晴らし」と称して,逃げてぷらぷらしていたんではないのか? このコラムを読んでから,たくさんの自分の声を「声に出して」,ひとつずつ話しては, 「それはホニャララな気持ちからだったんだね。」「そのときは辛かったね。」と, ひとり言してるうちに,とても気持ちがはっきりしてくるのを感じました。 他人から見られたら,完全に『アヤシイヒト』(苦笑) 日中おうちに一人でいるからできることですね★ あのサイトでは,ダークでブラックな気持ちを抱いていても, それを率直に出すということは,どなたも,まずありません。 日々の生活の中で『良かったこと探し』をして,皆さんにご披露し,聞いてもらう。 そんな『善人ヅラ』な自分がイヤになったのでしょう。 「金魚鉢」の中で仲間に会えて,最初は楽しかったのですが, どんどん酸欠になってきた感覚・・・息苦しさで水面に口をパクパク。 でも四六時中,水中を覗かずにはいられない。これってオカシイですよね・・・ まずは,「自分と自分をつなごう」,自分の心の声に耳をふさがず向きあおう, そうやって,酸欠だった毎日から,抜け出していきたいと思います。 そうすれば,「金魚鉢」も違う気持ちで眺めることができそうな気がします。
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『わかって』煩悩。
年末年始,携帯の触りすぎで,右手が痛くなるほどです。
ネットへのレスポンスが速い機種なので,充電も一日でカラになるほど。 なにしてんだワタシ・・・と,昨夜ふと我に返りました。 保存していた切り抜きを引っぱり出して,読み返しています。 長文ですが,引用します。 「ネットに満ちる『わかって』煩悩」by小池龍之介(月読寺・正現寺住職) インターネットを通じて「人とつながりたい」という気持ちの裏にも,「自分をわかって」という煩悩はまぎれこみます。 ネット上では日記や片言のつぶやきから,匿名掲示板での他者への批判,悪口,陰口にいたるまで,膨大な量の言葉が吐き散らかされていますよね。 それらの書き言葉が昔の個人的な日記と決定的に異なりますのは,他人に見てもらいたいという衝動が働いていること。自分の日記や片言が<見られる>ことを通じて,「自分ってこんな人なんだよ」とわかってもらおうと,誰もが実は寂しくあがいているのです。 たとえば,「今日の私の誕生日は,友達が赤坂のホテルでお祝いをしてくれてフレンチでした」と,みんなからもらったプレゼントの写真つきで,なぜに書きたくなるのか。それは「みんなから祝ってもらえたりプレゼントをもらえたりして,こんなに大事にされる,ステキな私なんだって<わかってほしい>よ」という思いからなのです。 匿名掲示板での悪口も,自分の書いた悪口を多くの人たちが<見てくれていて>反応してくれることを通じて,「自分はじょうずに他人を批判できる」ということを<わからせよう>としているものです。ゆえに,だれも反応せず,だれも見てくれなければやる気を失うことでしょう。 かくして現代社会は「自分のことをわかって」という孤独な言葉へと翻訳できる文字たちに満ち満ちております。 かつての日記は他人の目を退けていたがゆえに,心の<避難所>であり得ました。それを他人の目にさらすことで「わかってよー」と心を乱すものへと変えてしまうのは,控えめにしたいものですね。
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